RSS | ATOM | SEARCH
【読書】ぼくたちが選ばなかったことを、選びなおすために。



このご本、お友達がブログを書かれていて、それで知ったのよね。


私のこれから書くブログ読むより、多分ご本の内容はこちらのが詳しいので、ぜひチェックしてね。


お友達のブログはこちら

その後、別のお友達にも推薦されて、、、
2人のお友達から推薦されたんだから、読まなきゃよね。
って事で、いつも通り安定の紙の本を買いました。
本屋さんで!


あー、なんか読む前からなんか内容しってたなぁと思ったら、先に書いたお友達のブログ読んでたからでした。


さて、私は例によって感想に終始しよう。内容にちゃんと言及することはないのかって?それは、まぁ個々人が読むかに委ねようじゃないかというスタンスね。


この著者さん、多発性骨髄腫というなんというか、根治が難しいガンである。


実は本の途中で放射線治療が効いて、ガンが消えたってこともあるみたい、それでも、それは痛みがきえた?和らいだ?程度の話で、余命宣告をされた時間が減ったり、完全に治りましたなんて未来のないものらしい。


ガンになった人という意味でいくと、うちの母はガンになった。そして、もうガンを切ってから多分もう20年くらい生きている。


舌癌になった友達もいる。
その友達はブログを書いてくれている。


この著者さんもそうだけど、私の母も、舌癌になった友達も、ガンだと診断がつくまで、なんか壮絶な感じで。


うちの母は違和感を感じてから、どんどん膨らむのに1ヶ月とかからなかった。


検査をしてくれた医師が、大腸ガンの可能性を早々に否定できるだけの検査をしてくれて婦人科に紹介してくれなければ、卵巣癌というやつで、あっという間に死んでいたと思う。


私が今、歩んでいる人生は少なくとも絶たれただろう。


舌癌になった友達は、水も自分で飲めなくなる状態になって、病院で舌癌の診断を受ける。


詳しいことはブログを読んでもらう方が良いと思うので、リンク貼っちゃう。


舌癌のお話のリンク


そして、今回の著者さんも、壮絶な痛みに耐えて、やっとガンが見つかり「やっぱりな」と書いている。


とにかくカラダの内側で起こってることが普通ではない状態になるのか。。。ガンというやつは。。。


と納得する。


そして、その壮絶な痛みの中、「自殺を考える」


この著者さんは、自殺を思いとどまった理由を、「実は生き物というのは簡単には死ねないということを知っての行動だった」と書いている。


そう、人は簡単に死ねないのだ。


今は買えるかわからないけど、その昔、「完全自殺マニュアル」なる本があり、私はベッドの後ろの私しか見れない棚の中にお気に入りのCDとともに入れていた。


自殺を考えているかいないかに関わらずそんな本、開けっぴろげで置いておけるわけもなく、「なんで、そんな本持ってるんだ」と誰かに聞かれても、答えに困るので、お気に入り棚に入れて、「私以外の人は触らないで」ってしてたわけだ。


その中には、淡々と、自殺の方法が書いてある。


そう、いつの日か自殺を考えたら、痛くない方法、ぽっくり逝ける方法を選びたいじゃないか(これは、賛否両論あるだろうけど、自殺をするということ自体について、議論したいわけじゃない。)だから、調べたんだよ。


いつの日か本当に実行したくなった時、確実に死ねて、一番辛くない方法を。


結論から言えば、辛くない方法も痛くない方法も基本的にはない。


多分一番それに近いのは首吊りだけど、それだって、美しく死ぬことはない。(糞尿を垂れ流し、そういう姿を発見する誰かに見せることになる。)


飛び降りたり、薬のオーバードーズなんてのもあるんだけど、下手をすると死ねずに、見つかって、助かってしまうのだ。


それはそれで、不幸じゃないか。
本人は一時的であろうが、痛みに耐えかねてだろうが、自殺しようと思っていたわけだから。


そう、そういう「簡単に死ねないという事実」と天秤にかけて「自殺しないを選ぶ」というのは完全にあって、この著者さんが書く、「人は簡単に死ねない」は本当にその通りなのだと改めて思った。


著者さんは、自分のガンをいろんな人に説明するのに嫌気がさして、ブログにガンを公表する。


それはそうである。


何人に聞かれたんだろう、同じ話を何回したんだろう、そんなことを思う。


私が、ガンになったり、難病になったりして、どうにもならんということが確定したら、このブログに書こう。


そして、このブログ読んでくださいって言うことにしようとそんなことも思った。


著者さんが、そう言うことをブログに書くと、自分とは直接には関係にない人、実際は同じガンだというわけでもない人たちからの感謝の言葉が届いた。


なんでだ?
それは、自分が苦しい立場にいると言うことを言えなかった人たちからの苦しい告白だ。


そのブログにコメントとして届いたものやメッセージとして届いたものは、この本で公表されているわけではないけれど、きっときっと、感謝を述べた人たちは、自分の辛い思いを書き綴ることができた、そして、それについてなんの評価も、「頑張れの言葉」も、「頑張らないからだ」の言葉も、「逃げればいい」だの、「なんでそんなことをで悩んでるの」といった、相手は何気なく言ってるつもりの強い言葉が返ってこない場所に書けたという、そんな感謝の気持ちだったんだろう。


著者さんは、それを汲み取って、そうやって感謝を書いてくれた人のインタビューをして、本を出すことを心に決める。


このご本、友達のブログを読んだ印象や、ご紹介いただいた感じでは泣ける本かと思っていたけど、実際には読んでいる間中、泣けなかった。


前回、スタートアップに奮闘する経営者の話は人がひくほど泣いたのにである。


たまにそういう本はある。
涙を流してデトックスに使おうと思っていた本ほど、涙も出ないし、いい意味でもよくない意味でも泣けないし、もう一段遠いところから冷静に見守ってしまう。


自分のこととして捉えられないから?
いや、どちらかというと、もっともっといっぱい考えたからだと思う。


いろんな人の話に泣けない上に、淡々と読み進む自分にはまるで心がなくなったのではないかとたまに思ったりする。


このご本の中で、著者さんは家族というもののあり方について書いている。


共通のメッセージがあるとしたら、一つは「家族」ということかもしれない。


家族の選び方
家族は、家族というものですら、選び直していいんだという。


全てのつながりは、実は自分で絶たない限り絶たれることはない。


それは良い家族の場合でも、虐待だの、不全だのの家族の場合もだ。


決して勝手に切れたりしないのだ。


その決断をするのは誰あろう自分以外にいない。


いつも、いつかは捨てられると思っている人なら、安心していい。
捨てられないよ。
もしも、捨てられるとしたら、自分で、捨てられるように仕向けているんだよ。


だから、ほんのちょっと相手と自分のことを信じるだけでいいかもしれない。


でも、辛い環境にいて、どんなに捨てて欲しいと願っても、捨てられることはない。絶対に。


とても残念だけれど、その逃げられないスパイラルから救ってくれる人なんていないのだ。


自分で選び直す以外にない。


そういうことが書いてある本だった。


そして、ガンになって、彼はその繕っていたものがはぎ取られるように人間関係が変わる。


生き方が変わる。


そして、そういう全然違うけど、同じような体験をした人たちを取材する。


親がとか、生まれた環境がとか、いじめにあったからとか、自分のガンのせいで家族がバラバラになってしまったとか、生まれる環境も選べないのに、親をみなくてはいけないのかとか。。。


「すべき」のオンパレードを
どうにか繕ってきた「果たしている」感じをはぎ取られる
そんな体験に思えた。


ガンにならなくても、どんな体験をしていても、していなくても、「自分が選べるのだ」と言いたげだと思った。


決して幸せだと言えない一面と
最高に幸せなのに、余命宣告されているという状況が文章から読み取れる。


自分が選べずに産み落とされて、選び直したい家族と
自分が選んで産み出した家族とを思い、取材した他の人たちの状況にも目を向けて絞り出すように言う
「選び直せる」と。


もしかすると著者さんとは逆で、自分で選んだ家族が最悪で、もともと何も知らずに家族になった人たちが素晴らしいってこともある。


どの家族も、友人も、周りにいる人すらキラキラしていて、選ぶも何も最高だという人生の人もいるかもしれない。


逆に産み落とされた家族も
自分の選んだはずの家族も最悪だよって人もいるのかも知れない。


どんなに状態だろうがどんなに辛かろうが、どんなに幸せで最高でも一つだけ誰だってわかっている不文律がある。


そう、どんな人でも
「選び直すことは可能だということ、そして、それはあなたの代わりには誰もやってくれない」ということだ。


その一つのメッセージを伝えたくて、このご本を書かれたのではないかと思う。


著者さんがガンであることも、ご家族と離れがたいほどの思いでいることも、逆に親対しての思いもすごくあることはわかる。


わかるけど、それに肩入れしようと思わない。
ガンになって不幸だとも思えない。
ガンになって繕えなくなったことも理解はできるけど、それもそうだろうなと思うくらい。
ご両親のことも決してよくは書いてない、それについても不幸でしたねとも思わないし、逆によかったですねとも思わない。


全ては、誰だってあり得ることで、あまりそれらに肩入れすることがなくなってしまった。


だからきっと泣けなかったのだと思う。


それでも私は、逃げることを思いつきもしなかったという誰かに、自分と同じ境遇の人はいて「選び直していいんだ」ということに気がついて欲しい。


誰とも知れない顔がわからない人と、実は顔も関係もわかる人からも、傷つけられたとしたら、それはあなたのせいではないし、それを「選び直してもいいんだ」ということに気がついて欲しい。


そういうことを知らせたくて、著者さんは本にしたんだと思う。


だから、どこにいるかわからない「選び直せなくて困っている人に」届くように、いっぱい拡散されたらいいと思う。


そういうことにを切に願う本だった。





author:ぷぅコッコ, category:ビジネス書感想, 18:15
comments(0), -, - -
【読書】クレイジーで行こう!



ある朝、母が言った『なんかおはよう日本でね、アメリカの水道管を検査するってのをAIでやってる人がいるんだって、言ってるよ。日本人なんだって。』


うん?うん。えっと、なんだっけ?


なんかちょこっと調べて、『あー、この本作った人、知ってるわー、今度、本買ってくるよ。』


母は『じゃー読み終わったら、貸してね。』


そうそして、私は、その本をいま、読み終わったの。


実はこの編集者さんを私は知っている。


五年前に遡る。
仲良くしている日経BPの営業さんが、『ぷぅねーさん、海外で仕事されるんですよね。最近出たご本なんですけど、ぜひ読んでください。』


と言ってプレゼントしてくれたのだね。


「アジアで働く、今はその時だ」の感想


その時、渡された本を編集したのが今回のご本と同じ編集者さん。

ブログ読んで、改めて、まじかー台湾、渡って一週間の時点で読んでるわけかーちょっとその頃のことを思い出したりする。



編集者さんも直接お会いしたことがあって、知っているんだけれども。
それで、まぁ、上のアジアの本の頃、もし私が本を書くときがあったら是非編集をお願いしたい1人だわーと、やんわり思ったのを今でも思い出す。
(ちなみに、本を出すと言った予定は全くございません。はははっ。)


ここで、冒頭、母の言葉に戻る。
そうだ、この人、、、この人の本、、、あの編集者さんが作ってたご本の人だ。


本が出てから少し経っていたので、大きな本屋さんに行って、平積みされたりはしておらず、しかも、表紙イメージは結構かわっていたので、本のイメージは焼きついていたものの、題名が思い出せず、著者さんの名前も思い出せず、なんとなく『水道管、AI、おはよう日本』みたいなキーワードで適当に検索して、著者さんを見つけて、今度は本の検索をして本屋さんで買う。
みたいなことになったわけ。


発売された時に、すぐ買っておけばよかったやん。
と、少し後悔した。





このご本、なんか見た目、ビジネス書っぽくないでしょ。
このイメージだけ、すごく残ってて、『そうだよ、ビジネス書の棚で、らしくない本探せば見つかるんじゃない?』と思ったけど、結局、行った本屋さんが大きな本屋さんで、そんなことは叶わずだったり。


なんとも言えない気分で必死に探しました。


いやー、編集者さん買いを推奨してる私的には、編集者さんで検索できる方式でお願いしたいレベルだったりする。


さて、ここまで、本の内容に触れてないけれど、激動の1000日間が実は私の台湾での仕事の期間と丸かぶりで、それもあって、随分と心の動かされる本だった。


ビジネス書、結構読んでるんで言いますけど、だいたいなにかがうまくいって本を書いてる経営者さんたちは、多かれ少なかれ、『成功したのにはわけがある』と書くんです。


バタバタしてたり、すごく苦しんだ経験の先にある『うまくいったこと』だけが浮き彫りにされて、そこに向かって最初っから一直線でしたという物語になる。


これ、みんなそうなってる。
なぜなら、後からそれを思い返して書いてるから。


それが悪いというんではなくて、そういう本になっちゃうのを散々読んだ挙句にこの本を読むと、『違う』というのがわかるし、その違いを出すということを目的に連載されたものが編集されて本となって出ているので、本当に違うの一言。


連載してたって書いてあるのに、なんで私はこの人の話を全然知らなかったんだろうと思ったら、同じ頃、この著者さんである経営者さんと同じように、規模は全く違えど、私は台湾で戦っていたんだった。


著者さんの略歴にもあるけれど、著者さんが作ったフラクタという会社の株式の過半数を栗田工業に売却し、資本業務提携をした2018年5月30日、私は台湾から日本に戻ってきていて、しかも古巣の企業に再就職(戻れるようにしてたわけじゃなくて、完全に辞めたんだけど、ご縁あって、入れてもらったと言うね。最近、流行りの出戻り社員)し、6月1日から仕事をはじめるという直前。


そんな感じの私がこの本を読んで思った感想が『ほかの成功物語とは違う』ということ。もちろんテレビで取り上げられたことはすごい功績で、すべては成功の元にあるんだけど、そうだと思って読んでたら、心が動かされて、通勤の中央線と横浜線で、意図せず涙が止まらなくなることが何度もあったわけ。


それは、『ぷぅねーさんが感受性豊かなんですね』とかいうことではなくて、時に自分と重ねて、時に自分とは重ならない大きな次元での悩みと情熱が、文章から伝わってきたからに他ならない。


だから、やっぱりほかの成功物語とは違うってことになる。



面白いことは、ほかにもある。


経営者の方のご本は、先に言った通り、たくさん読んでいたりする。
こんなブログ書いちゃうくらいなので、結構、まぁ、経営者さんに関わらず、本の著者さんも知っているんだけれど、実は本を読んで、『ムッチャこの人に会いたい』と思う人はあんまりいなかったりする。(いやー、ほんとすみません。)


本が出来上がる過程において、編集者さんの役割みたいなのが大きかったりして、むしろ編集者さんで選んで買うとハズレ少ないみたいな変な知識だけが増える。


思い返してみると、経営者でこの人に会いたいと、本を読んで強烈に思ったのは、元ライフネット生命の出口さんで、それ以来ものすごく久しぶりに、読んで数ページで『あっ、この人に会いたい!』と思ったのよね。


強烈に思ったものの、忙しい経営者さんであるので、べつに本を売るためにプロモーションしたり、セミナー開いたりしなくて、きっとこのマシンラーニングとも言えるツールを武器に『製品を売る』そして、アメリカ、世界のインフラを整えると言ったことでもっともっと有名になるはずで、その戦場はまた日本にはなくて、なかなか難しいかもしれないなぁと思いつつ。
まぁ、会いたいと言い続けたり、思い続けたら会えるかも知れないと密かに思ってるわけだったりする。


会いたいと思わせるほど、この人にはなんでこんなに強い言葉で語りかけるんだろう。


ジェットコースターのように脳に響く言葉の数々で本を離せない。


そんな本、お行儀の良い経営者では書けないし、本が刊行されたタイミングを考えても、成功が約束された後に、振り返って書いたのでは書けない。


さながら規模が違えど、私が台湾でガツガツやって、時に悩んでいた頃に重なる。


そして、また、思い出したように目頭を熱くしたことがたくさんこのご本の中にあった。


読みながら、この本はそういう海外の人と、現地で仕事したみたいな体験をしたことがない人にも、この熱さのままで届くんだろうかと疑問に思ったり、途中、要所要所出てくる要の言葉は、アメリカでの彼の仕事を鑑みると、日本語であろあはずもなく、ほんとはどんな英語で語られたことなんだろう?むしろ英訳版が読みたい!と思ったり、大変忙しい本だった。


その中でも文字通り号泣した言葉がある。
それは著者の加藤さんが語ったことではなく、一緒に会社を切り盛りしていたラースさんが語った言葉だった。


日本のどこかにいる、変わった人を
「情熱ある人たちを、どのように集めるか?」についてだ。話の発端は、ランチを食べながら、「なぜ、このシリコンバレーには、こんなにも情熱のある人たちが集まるのか?」とラースさんと話したことだった。


そして、ラースさんは言う
「もし目の前にいる人たちに情熱があると思えなかったとしても、加藤さんがガッカリする必要はないよ。情熱のない人たちを、情熱のある人たちに変えることは難しいんだ。

ただ、日本にも、加藤さんのように変わった人、情熱を持った人がきっといる。もともと情熱のない人たちに火を点けてまわってもダメだ。そうじゃなくて、既に日本のどこかに存在する。変わった人たち、情熱のある人たちを探すんだ。
加藤さんが、情報を発信する、誰かと話をする。もし相手が変わった人であれば、その人に情熱があれば、きっと気づく。向こうから寄ってくるさ。そう言う人を仲間にするんだ。そうすれば日本発でも、きっとシリコンバレーで戦うことができるはずだ」



ここを読んで、勝手に台湾に行って、家族の事情で日本に帰ってきて、古巣の大企業に再就職した私は、中央線で号泣する。


仕事をしながら、情熱が感じられないと、窮屈な思いをしていたところだった。


スピード感が足りないし、指示が緩かったら誰も聞かないじゃん
って言いながら、走っていた。
それでも大企業で、私にはaccountabilityがなかった。
だから、それを持ってる人に懇願する。でも、そこに響かないのだ。


なんでだろうって思ってた。


ここで、情熱がない人にたちに火をつけてまわってもダメだと、また私もラースさんに諭されたような気がした。


うまく立ち回れない自分を思って泣いたんだと思う。
でも、そうじゃなくて、関わってる人の中に、情熱のある人を探そう。情熱を感じでもらおう。私がやりたいと思っていることをちゃんと、、、それはなにも日本の企業の事なきを良しとする人たちのためじゃなくて、その先にいる、優秀なの担当者たちに、伝えよう。
全部やって、それでもどうにもならなかったら、選択肢はいっぱいあるじゃないか。


それでも、任されたからにはこの製品を形にしたいんだ。。。


と、言う思いが溢れたんだろうと思う。
中央線で、多分周りの人がひくほど涙を流していたと思う。
(よほど苦しいのか、これを書いてるスタバでも結構人がひくほど泣いている。まぁー誰も気にしないから、まぶたが少し重くなるくらいでなんとかなるだろう。)


そうか。
情熱を持たない人に火をつけてまわってもダメなのか。


なかなかに私もラースさんの言葉に救われた思いがした。


そんな感じで、必ずしも著者の加藤さんが語ったことではない場合でも、彼とはまったく違うけれど、多くの言葉が刺さり、時に台湾を思い、時に家族を思い、時に今いる日本の企業を思った。


家族のことがあると人生はなかなか自由にはならない。だけど、それがなんだろうか。サラリーマンだから、何ができるんだよって思いもある。それでもスタートアップにしかできないのと同じくらい、大企業にしかできないこともある。


そこにいる、本当は情熱を持つ人たちに、働きかける。何度でも、何度でも。


そんなことを思った。



そんなジェットコースターにでも乗っているような読み方をしていたので、他の本とは本当に異なる良いものを読ませてもらった。


この熱気はどこからくるのか、ずっと不思議だった。


でも、謎は後書きで解ける。


もともと成功物語を書こうとしたのではない。
成功したから、後付けで本を書いたわけではない。


私はその連載をまったく知らなかったけど、リアルタイムで連載し、その時起こっていることを包み隠さず書いた。


そのことがこの熱さとなっていて、それが、彼の伝えたかったことで、それは、少なくとも、私にはすごく伝わる本になってた。


最終的にうまくいったことを後から振り返ると、こんなことまでやって頑張ったよって成功の法則を描きたくなる。


でも、ほんとは違う。
悩みながら、変えていった仕組み。
その仕組みを作り上げる時、絶対うまくいくと思ってない。どちらかというと、後悔にも似た、どうしてもっと1日でも早くこれに気がつけなかったんだろう?どうしてもっと早く確信に変わらなかったんだろう。
いつも祈る気持ちで結果を待つ。


でも、それは、その時に起こっていることで、その時必死なことで、その時でないと書けないのだ。


だから、この本は尊いと思う。


スタートアップの成功物語が知りたい人ではなくて、情熱を持って何かに取り組んでて、そのことに祈る気持ちでいる全ての方に届いたらいいと思う。


まさに、クレイジーだ!



author:ぷぅコッコ, category:ビジネス書感想, 16:10
comments(0), -, - -
【徒然】良し悪しでなはい、3つ目のこと

割と善悪と良し悪しで生きてるなぁと思ってたぷぅコッコです。


とあるプロジェクトに関わってまして、終わりではなく中間のレビューにおいて、にっちもさっちも行かなくなり、今期は未達と相成りました。


ちょっと引き継がれたのは退職者に伴う変更だったためわずか1ヶ月前。引き継ぎ状況は最悪、これをどうやって1ヶ月でおさめるんだよと、断りたいレベルでボロボロ。
まぁ、いろいろあって遅れ甚だしい中での引き継ぎで、参加してる全員が無理だと思っていたのでしょう。


まぁ、そんな事情だから、言い訳はたつ(退職者が出たから、引き継いだ人(つまりは私です)が不慣れだったから)。引き継いで人間が、『まぁ、仕方がなかった』と全てを被れば丸く収まったんでしょう。


分かりますよ。


私が別の立場ならね。


でも引き受けたからには、どうであれ一定の水準まで持っていきたいと思ってました。


結果として、ギリギリまで身を削って攻め続けましたが、最後の最後に、お願いをしていたコードはうまく動作していないことがわかりました。
改善するために浮き彫りにされた課題に対して、少なくとも関係者に啓蒙することができました。


その間、私はと言えば、寝る前に本を読もうとして、気を失ったかのように本を顔の上に置いて寝たり(文字通り顔の上)毎日のように寝言で仕事のことを話していたそうです。


なかなかに魂を削った結果が、今回は成果に繋がらなかったというのは非常に残念です。



1ヶ月前に引き継いだ時、ここまで酷い結果と、全ての膿出しができる、いや、なされると思っていませんでした。



それでも、成果が出る、成果と認識されるということと、成果が出ない、成果が認識されないということは、どうしてもすっきりしない良し悪しがあるんじゃないかと思ってしまうのです。


でも、それはそれ。
私は一介の兵隊で私が責任を取るわけじゃないんだ。
その仕事に責任はあるんだけど、それができなかったことで、誰の目にも明らかに『担当者が変わったから』という理由を、それが嘘でもほんとでも与えてしまう。




いいんだ。
立場が違えば私でもその手を使ったよ。




それは、理解できるよ。




だけど、




悔しいんだ




そんな理由の上に一人売られた感じが。(そんなつもりはないんだろうけどなっ。)




良し悪しではない道は次のチャンスがあることを良しとして、誰でも、誰の目にも、誰がみても、作り上げることができるシステムを残された時間で組み上げること意外にないだろう。




それはいいことでも、悪いことでもなくて、私じゃなくて、私から担当者が誰に変わったとしても同じ時期に成果が出るようにすること。




ルールを作る。




そういうこと。




ルールを組み上げるにはあまりにも短い時間であったということ。




いつでも、そのルール作りと戦ってて、また新しい戦いの第二幕だということ。



装置の神様は私にそれを課しているんだろうと、思っている。



author:ぷぅコッコ, category:徒然, 07:31
comments(0), -, - -