- 【徒然】飛躍を誓おう!気がつかなかった自分に気がつくこと
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2016.12.31 Saturday今日はもう無理かな?と思ったけど、ブログを書いています。
今年はブログをお休みすることが多かったです。
春節のころ、毎日ブログを更新するのをやめました。
ってか春節にお休みをもらったんだね〜。
もらったも何も自分で決めたんだけど。
数年前からだけど、素敵な出会いをいっぱいいただくようになりました。
これって実は書くことに由来していると思っています。
誰に編集されるわけでもなく、自分が読み返してちょっとなおしてアップするブログってのは手軽だよね。
それだけに、アップしてもしなくても一緒かと思うけど違うんだよなぁ。
その違いはなんなのか、探す旅をしている気もするんだね。
そんな感慨はどうでもいいけど、本を読んだり、書いたり、人と交流したり、する中で発見することがあるのね。
今年はその発見の大きな年だったような気がするんだな。
うまく言葉にできるかはわからないけど、いろんなことを教わった気がしてます。
中には悲しいこともある。
それ以上に、嬉しいこともある。
自分と向き合った時間もある。
そんなこんなで体調を崩した日々もある。
んでもって、そうする中でまた気がついたこともある。
なんだかなぁ。。。
今年は別に切れ目の年でもなく、何があったわけでもないんだけど、「自分は自分のままで、いいのかもしれない。」と思うと同時に、「今の自分を一番嫌っていたのは自分なんじゃないか?」ってことに気がついたんだな。
これは、結構シャレにならず苦しいことなんだな。
誰に嫉妬してるとか、今が幸せじゃないとか、悲しいことがあったからだとかそういうことじゃない。
これまで出会った本から、いっぱい学んだと思ってた。
その中には自分を好きになることってのもいっぱいあって、私は私が思ってるよりずっと自分のことが好きで、自分のことが好きだからこそ、素敵な出会いもいっぱいあるんだと思ってたし、思ってる。
それはそれで、そうなんだけど、悲しいことに違和感があったのね。
何度も同じような悲しい目にあっているのに、なぜ気がつけないんだろうって。
悲しいことがあるたびにずっと思ってきた。
その答えがずっと知りたかったんだけど、それは、うまく言えないけど、「心の底から自分に自信がないってこと」で、その自信のなさは「自分が一番自分を認めてないこと」にあったんだなって気がついたんだよね。
人に褒められても、「ダメだ」って思うのは何故なのか?
素敵なことの方が、ものすごくいっぱいあって、それに気がついているのに、ほんのちょっとのことで「大きく傷つくのは何故なのか?」
人には「大丈夫、大丈夫だから心配しなくていいよ」相手が安心できるようにって声をかけるのに、自分はいつも小さなことで大丈夫じゃないのは何故なのか?
その答えは
私が、私を認めていないからだったんだね。
表面的にどうこうということじゃなくて、もっと内側のもっと内面のもっと根っこの部分で好きじゃなかったんだよ。
努力すれば、何かになれると思っていた。なれないのは、努力が足りないせいだから?
ソンナコトナイヨ
っていう人の言葉をうまく受け入れられず、逆に
君はデキテナイヨネ
という人の言葉を鵜呑みにしてしまう。
できてないこともあるんだけど、デキテナイヨネって、これまで言った人たちに強烈に惹かれて、「そうだ!デキテナインダ」って思ってしまってたのは、そう私自身が言われたかったからなんだな。。。
そう言ってくれる人は私のために言ってくれているんだと思いたかった。
いや、思っていた?
いやいや、多分、認めたくはないけど、私がそう言われたかったんだよ。
だから、「それって失礼じゃない?」ってことにまで反論しないで咀嚼しようとしてた。
それは、それ自体は、絶対に違うということは、「知識として」は、わかっていたんだけど、どうしてもその罠みたいなものに落ちちゃう、そう言われちゃったり、そうなっちゃうのは何故なのか?
それは、私が私の中の私を認めて来なかった、ミトメタクナカッタからなんだな。
そんなことをふと思うようになったのはいつだろう。まぁ、今年に入ってからなんだけどね。
話は飛ぶけど、実は私、意外とプレゼンはうまい。
本当は日本語でできれば最高だけど、英語でやっても、そこそこ聞いてもらえるものにできる自負がある。
何言い出しちゃってるんじゃいって思うかもしれないけど、まぁ、そうなんだよ。
それでも、準備をするときはものすごく緊張してて、喋る前は心臓が飛び出しそうで、いつも逃げたくなる。
その震える感じと、壇上で喋る姿がいつもリンクしなくて「出来は悪くないのに、なんでいつも心臓が飛び出しそうなほど緊張するんだろうか?いつでも落ち着いて余裕でできる日が来るんだろうか?」とずっと思ってきたのね。
ぶっちゃけ、マスターで学会発表した頃からだから、余裕で20年は経ってるかな。
いつも緊張して逃げ出したくなる自分を克服できるのはいつなのか、そのことをずっと考えてきた。
そう、プレゼンの出来は決して悪くないのに!である。
今年に入ってから、ふっと思ったの。
これは、もしかして、私の特性だからこの先、何百回、何千回プレゼンをやってもこの極度の緊張はなくならないんじゃないか?
ってね。
この緊張とプレゼンの出来はなんの関係もないのかも?って。
緊張してる自分だからプレゼンがうまくいかない
という法則は成り立たないってこと。
ここまで読んでくださった方は、思うと思うんだな。
「そんなの当たり前でしょ?」
だけど、それが、内側で当たり前じゃなかった。
だからねじれてるの。
うまく努力できない自分とか
前に進んでない気がすることとか
明るくネタにするようなことまで
本当はずっと認めてなかったし、ミトメタクナカッタ。
だから、今、こうなんだろうな。
不思議だけど、それに気がついたからといって何がよくなるわけでもないんだけど、「私は、私以外にはなれないんだな。」それなら、それでもいいじゃないか?
自分が一番自分のことを好きにならないのに、誰に好きになってもらうというのかってね。
だから、私のことを本当のところは、好きでもない人が私のところにやってきて、私をコントロールしようとするんだよ。
きっと、彼らには見えているだろうね。
本当は私が、私のことを一番気に入ってないってことがね。
でも、それは卒業。
今日で卒業。
できないことも、できないことでいいじゃないか。
その上で、できてることがいっぱいあるんだから。
そのままで「できていることを認めない」なんて、私のことを考えてくれているわけじゃないよ。
だから、そんな私がまずは、私のできないところやどんなにやっても変われないところはちゃんと認めてあげないと。
「それはそれで、まだできてないですけど、なにか?」
「それは、今後も変わることはないですけど、問題ありますか?」
「私は私のダメさも含めて認めてますし、それ以上にいいところがいっぱいあるので、そちらを見ていただけませんか?」
とか、胸張って言えるように。
来年は、いやいや、来年からは自分をいじめるのはもうやめようと思う。
もう十分だよ。
十分、イジメぬいたよ。
もう終わりでいいじゃないか。
自分を傷つけることじゃなくて、自分が喜んだり楽しかったりすることを、心から求める人生でいいんじゃない?
書いてみると平たく聞こえるけど、実は大きな飛躍だと私は思っています。
- 【台湾】太魯閣峽谷行って来ました
- 【徒然】とことん読みやすくしている本について
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2016.12.29 Thursday最近は、古典な書を要約するというか、解説するという本がいっぱい出ているなぁと思います。
もっと言えば、もともとのご本も大して難しくもないけど、マンガにしてわかりやすくしてあるものとかね。
時々で使い分けて読んだらいいと思うのよね。
ただ、私はあまり好きではないかな。
「古典をとことんわかりやすくしてある本」というのは、それだけ、わかりやすくしてくれたという著者さんと編集者さんと出版社さんのバイアスがガンガンかかってるってことなのね。
言い換えると「古典を、解説者さん色に染め直して出しました」という事ですかね?
解説者さんに力量があれば、面白いのかもしれないし、少なくとも、編集作業が入っているから、8、9割の人は、「この古典を読んで、こう感じるであろう」もしくは「こう読み解くのが最適であろう」ってことが書いてあると思うんですよ。
その意味では、学生時代に国語のテストで出た「次の文章を要約せよ」ってやつと同じね。
学生当時、国語のテストでよくあった「この時の作者の気持ちをAからDの中から選びなさい」ってやつ。
あれ、答えられたけど、すごい違和感があったんだな。
「作者に聞いたんかい?」っていつも思ってました。
テストはテストなんで、便宜上それでもいいかもしれないけど、誰かが書いた何かって、そんなに簡単にその真意がわかるものなんだろうか?とね。
それで、その延長に「古典の解説本」とか、まぁいわゆる解説本ってのはあるかなと思っています。
知識として、概要として、要約したものとわかった上で、読むのは構わないと思う。でもね、それは「古典」そのものではないということを頭の片隅にいつも置いておかないと。
なんとなく読んだ気分になるってのはすごく恐ろしいことだなって思うんだよね。
少し前の話だけど、私、どんなきっかけだったか忘れちゃったけど、ジョージ・オーウェルの「1984年」を読んだんですよね。
その時、多分先輩に勧められたかなんかだったんだと思うんだけど、彼は「内容はよく覚えてないんだけどね」と、コメントしてたのだけは覚えているんだな。
読んだことのない方は是非、読んで頂けばいいと思うんですけど、「ビッグブラザー」で有名なこの本は、ビッグブラザー云々も含めて、一度読むと強烈で忘れられないような本だったんですね。
そこで、教えてくれた先輩に「本当にこの本、前に読んだんですか?」と聞いたら、ちょうど彼もそのご本を読み終わったところで(なんで、私たちは同時にその本を読むことになったのか、全然覚えてないですけど。。。)
「なんで?」と聞かれたので
「いやっ、だって、この本、内容が強烈だから、一度読んだら忘れられないですよね?」というと
「うん。強烈だった。多分、どこかで解説かなんか読んで読んだ気分になってた気がしたけど、違ったね。」
「ですよね?びっくりしましたもん。。。」
そう、私は、読む前にその彼から、彼のいうところのうろ覚えな解説を聞いたんだった。
確かに間違いじゃないし、大筋はあってたと思う。でも、実際に読んだら、とんでもなく怖い本で、一度読んだら、読んだ事実を簡単に忘れられるような本じゃなかった。
解説本と、実際の古典はこんな関係にある気がする。
平たく、内容を教えてもらってわかった気になる。
別にいいけど、それでその古典がわかった気になるのは、やっぱり違うかな。
なにも、国文学者でもあるまいにで、原書で読めとかいうつもりはない。忠実に現代語訳してあるものに取り組んだらいいんじゃないかな。
本当の本から受ける衝撃ってのは、実は自分だけのもので、あらすじとは全く別のところで、「自分が拾うべき大切なものが隠れている」かもしれないと、私は思っているのね。
そういう体験は、どのくらい本を読んだらできるのかとか、よくわからないけど、本をたくさん読むと、やっぱり昔から残ってる本の良さに改めて気がつくんだと思うんだなぁ。
そして、それを感じ取るためには、できるだけ忠実な現代語訳で読むべしってね。
日本には、ものすごい数の解説本もあるけど、それに匹敵するぐらい、素晴らしき現代語訳を取り揃えてくれている岩波文庫みたいなのもあるわけで、ありがたいわけですよ。
すぐには読めなくても、古典は古典で味わい、解説本は解説本として、解説者さんは、そして世間は、どう考えるのかということを考察するための材料くらいにしたらいいんじゃないかとおもってるんだなぁ〜。
こんなことを考えたのも、実は、これまで何度か挫折したビジネス書の大作を今、読んでるからなんだな。
今まで、なんで挫折してきたのか?わからないくらいに面白くて、前のめりで読んでます。
それって、私の中では、古典と同じで、「読めるようになる時期」がある気がしている。
昔は「難しいから無理」って思ってたものが、ある時ふっと読めるようになってて、それを読み始めると、自分の知りたかったことが数珠繋ぎのように関連付けられ、整理される感覚。
これが実は読書の醍醐味なんじゃないかな?ってね。
でも、それを、その感覚を、人に伝えるってのは、ほぼほぼ無理だと思う。
古典から受け取った感動を「正しく」伝えるというのは少なくとも私にはできない。
私ができないから、他の人ができない、ましてや、解説者の人ができてないなんて言う気はないけど、簡単にしようとすればするほど、その本で味わうべき味わいは抜けていくもんなんじゃないかなぁ〜。
そんな味を感じることも、また醍醐味じゃないかなぁ〜。。。
そんなことを感じる2016年の年末なのでした。
- 【読書】あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである
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2016.12.28 Wednesday
あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。 他人に支配されず、自由に生きる技術
題名も直球なこのご本、知ってる人は知っている、女装している東大教授の安冨さんが書かれたご本です。
ちょこちょこ彼がネット上に書いたり、コメントするものを読んで、ちょっと興味があったので、購入してみました。
「自己嫌悪」と言うやつと、それらが引き起こす弊害みたいなことが、すごくわかりやすく書かれている印象ですね。
ただ、おそらくご本人の中の「自己嫌悪」というものに対する「流れ」のようなものが、非常に多岐にわたる為に、本の中の話の展開はめまぐるしいです。
それでも、あとがきにあるように、編集者はそれを踏まえて、著者さんの手綱を引いたと、著者さん自身が感じていらっしゃるそうで、話はめまぐるしいですけれども、いわゆる「トンデモ本」みたいなことはなく、散りばめられた多くの事例から、自分にも当てはまるな!って部分を読み取ることができるように思います。
よほどの自信家か、病的ナルシストでもない限り、「自己嫌悪」って、多かれ少なかれ、誰にでもあるんじゃないかと私は思います。
かく言う私も、ものすごく小さなことから、割と大きなものまで、「え?ぷぅねーさん、そんなこと気にしてるの?」と言うようなことが、実は「自己嫌悪」から来ているってことも往往にしてあるかなと、ご本を読みながら思ってました。
なかなかこの「自己嫌悪」ってのは無くならないんですよ。
見ないように、見ないように
考えないように、考えないように
と、思えば思うほどに、そればっかり考えちゃう。
人間というのは何かを禁止されるか、もしくは自分で禁止すると、無性にそれがやりたくなるって生き物なのよね。
だから本書では「自己嫌悪をなくす」のではなく、むしろ「自身を愛しむ」ということを増やしていきましょう!って書いてある。
(表現は少し違うので、是非実際のご本を読んでみてね。)
そうして、「自身を愛しむ」ってのが増えてくると同時に、なくならない「自己嫌悪」も認めてあげる!ってなことだね。
こびりついた「自己嫌悪」を自分からどんどん離して行って、中心には「自身を愛しむ」ことを据えていくことで、どんどんと人生のコントロールを「他人軸」から「自分軸」に持ってこようという考え方。
これはこの本に限らず、他の本でも言われているんですね。
だからこそ、どんなに展開が早くても、どんなに変わったことが書いてあっても、私の中では咀嚼できるんです。
それは「咀嚼できる」というだけであって、「自己嫌悪が消え去った」とかそういうことじゃないです。
ないんですけど、
「生きるヒント」だったり
「受け入れることの大切さ」だったり
「自己を確立した上での、正しい依存(ほんとに苦しい時に、他人に「助けて」って言えること)」だったり
そんなことが拾えて、時には思い出させてくれるような、そんなご本でした。
著者さんご本人の「自己嫌悪」と
私が私の中に抱えている「自己嫌悪」は
違うものだというのはわかっています。
わかっていますけど、結局、その「自己嫌悪」が引き起こす行動はすごくよく似ていて、「そうだよ、そういうことを克服ってか、認めていかないと、生きづらいのよね」って妙に納得しちゃう感じかな。
ちょっと面白かったので、安冨さんの他のご本も読もうかな。
ちなみにこちらのご本は、安冨さんが書かれた、「生きる技法」と一緒に読むことを本の中でご本人が勧めていらっしゃいました。よくわからないけど、それにのっかってみよっかなぁと、思ってます。
「自己嫌悪」ってキーワード、気になるなぁって方は読んでみたらいいかも。
- 【徒然】年末の不思議
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2016.12.27 Tuesday自分的におっきな発表を1つ終えて、今日はゆったりモード。。。と行きたいんだけど、なかなかそうもいかない(笑)
明日のグループミーティングを終えたら、やっと年越しムードになるかも。
台湾のお正月はいわゆる「チャイニーズニューイヤー」なので、西洋で言うところの年越しとは違います。
今回は来年の1月末ごろがちょうどそのチャイニーズニューイヤーにあたりますので、だいたいみんなが年越しって感じで、例えば忘年会とかするのは、1月に入ってからなのよね。
クリスマスも、なんとなくはあるけど、盛り上がり的には全然で、日本に比べると、あまり大したことないです。
しかも、クリスマスが終わっても飾り付けが撤去されることもなく、概ねチャイニーズニューイヤーがあけるまで、そのまま。。。
華やかっちゃ、華やかなんだけどね。
去年は頻繁にとっていた日本の友達との連絡というかそんなのも、一部SNS等では盛んにやってますけど、あまり多くもなく、ゆるっとしてる感じ。
そんなわけで、12月だと言うのに、なんか、まだまだ年越しの雰囲気がしてこないのよね。
これもひとえに、今年は日本に帰らないからってのもあるかも。。。
だって、同僚の皆さんは普通に働いてるし、いやいや、自分も普通に、なんかいろんなことに追われてるし。。。気がついたらクリスマスも終わってるし。。。
なんだかなぁ。
日本って季節感があるからなのか、いろんなことに追われてた気がする。
台湾だってそうなんだけど、なんか違うんだよね。
このイベント終わったら、次はこのイベントみたいな感覚がやっぱり日本とはズレてるし、それはチャイニーズニューイヤーだからってことだけでもないと思うのよね。。。
そんなわけで、気がついたらクリスマスも終わり、もうそろそろ年越しなんだけど、年越したら、すぐに忘年会ラッシュだなぁ〜と思ってる今日この頃でした。
ところ変わると、感覚も狂うもんだね〜。
- 【徒然】書けないってのも辛いこと
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2016.12.27 Tuesday先月、先々月と、不調祭りでしたけれども、今月もすでに終わりだというのに、不調は継続な感じです。
困りましたね。。。
この「不調」というヤツ
いろんな原因が考えられるわけです。
例えば年齢的なモノとかね。
確かに年齢的なモノはあって、抗えないわけですよ。
そんなとき、こんな話を思い出します。
私は普段メガネをかけていますが、実は裸眼でも生活できます。
というのも、片方の目の乱視が強いんですけど、そちらの目は利き目ではないらしく、利き目がものすご〜く頑張れば、普通に生活できます。
でも、乱視の目はその場合サボってることになりまして、その2つの目を平等に使えない状態というのは、体の疲れに繋がるというわけです。
単純にはひどい肩こりに見舞われたり、偏頭痛に襲われたりとか、そんなこと。
それで、今は、眼鏡をかけているわけですが、かけ始めた頃のこと。
眼科の先生曰く。。。
「そろそろ年齢的にギリギリアウトな感じだね。今までは、目の周りの筋肉で補ってたけど、それができなくなっちゃった状態ね。だから眼鏡かけたほうがいいよ。」
ギリギリアウトって先生。。。
その時が「年齢」というのを感じるきっかけになった頃ね。
と言っても、もうそろそろ10年くらいになるなぁ〜、と書きながら思ってる今。
それからだいぶ経ってるわけですから、そりゃぁいろんなところにガタも来るだろうって話。
それだけではなく、精神的にやられた数ヶ月だったなぁ。
自分が理解できないことというのは、理解できるようになるか、そういうものだと納得するか、そんなことで解決するしかないんだけど、直感的に理解できないことってのは、なんというか、納得するのに時間がかかるよね。
そういうことに時間を割くと、ものすご〜く疲れるなと思うわけ。
若い頃なら、考えも浅いけれども、多少考えたり、悩んだり、泣いたり、叫んだり、まー、忙しくめまぐるしくいろいろしてるうちに、回復して、「なんだか成長したわ〜」なんて、なるけど、歳をとるとそうはいかない。
なんだか体に出るんだよ。
「そういうものだ!」と理解しようとした時、頭は割と柔軟に「そうだ!そう理解しよう」ってなる。。。これはただ単に、考えるのをやめようって思ってるだけかもしれないけど、そんな感じだけど、体の方は「私たちは納得していません」とでもいうかのように不調になる。
これはもしかしたら、脳が起こしていることかもしれないけど、「受け付けませんけど」と、言われているみたい。
普段はそんな脳で考えてることと、まさか、例えば「風邪のひきやすさ」みたいなものがリンクすると思ってないから、「なんで、こうなるのかわからない。」わからない間ってのは苦しくて、困っちゃうのよね。。。
まー、そんなわけで、精神と体は繋がってるもんだなぁとよくよく思うわけなんだな。
実に、不自由で不便だ。
そういうのからどうやったら脱出できるかってのは、これからもずっと、きっと課題なんだろうな。
1つ言えることは、
「自分のペースを乱さぬように生活すること」
「自分のペースが激しく乱れる、もしくは乱されるアクティビティには参加しないこと」
そんなことかなぁ、と思う。
自分でどうにかできることから、整えるしかしょうがないからね。
全く、不便だなぁと思う。
というわけで、ブログも手につかず困ったもんだったけど、書かないは書かないで辛いということがあるので、もう少し吐き出していこうかなと思ったりしてる。
- 【徒然】積み重ねるしかないねぇ
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2016.12.24 Saturday昨日は会社の忘年会で久しぶりにお酒でございました。
最近、小麦がダメになって以来、なんと麦系のお酒も飲めないことが判明し。(飲んでも死ぬわけじゃないが、すこぶる調子悪い)なので、飲まないことにしまして、そうするとかる〜くサワーみたいなものには手を出せないので、ワインやら日本酒などに挑戦中です。
ま、それはさておき
語学力の向上
お題は、中国語
について、会社の先輩とお話しさせていただきました。
かれはもう10年選手で、しかも中国語でお仕事をされています。
わたしは英語でお仕事をしています。
ちょうど中国語始めて2年くらいになりますが、多少喋れるってのはいいことなんだけど、自分の満足いくレベルには到達しないわけです。
うーん、どーして?
先日、ある本を読んだら、第二外国語というやつは、「いつまでも勉強し続けなくてはならない」と書いてありました。
その著者さんは、海外の大学を出られて、英語教育全般について国に提言される立場にあるほどのツワモノです。その人ですら「まだ足りない!」と日夜努力していらっしゃる。
ってことは、私ごときは、この曲がりなりにも「努力」のようなものを一生続けることになるだなと、思ったわけです。
それで、先輩に「中国語、どーやったら上手くなりますか!!」と聞くと、「まだ2年でしょ?うーん、それで上手くなったら、それこそ、、、いやいや、4年くらいしてやっとちゃんと聞けるようになるかくらいじゃない。いやいや、ずっと勉強よ!」と。
その後もいろいろ親身に聞いてくださいまして、有意義な時間を過ごさせていただきました。
そうなんですよ。
語学は「一生勉強!」
これ当たり前なんだね。
その意味で行くと、私のへっぽこ英語ももちろん勉強。
早速、次回の英語教室のターンにも申し込み、ひとまず、土日に英語に触れないと、月曜日の会話に響くから、土日も英語に触れようかと画策中。
結局のところ、苦しみながらでも続けた先にしか何もないんだな。
10000時間勉強すると、たいていのものはプロ"並"になるそうですが、逆に言えば続けないとなれないのよ。
プロ"並"にね。
焦らず、腰を据えてやったろうじゃんよ!
って思ってるのが今!なのでした。
- 【本日の万年筆】カランダッシュ エクリドールxs クチュール ピンクゴールドプレート
- 【徒然】人の評価と本当のこと
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2016.12.14 Wednesday誰だって、人のことを悪くいうのを聞いていたら、心が貧しくなると思う。
それが本当なのか、嘘なのかに関わらず、後から気がついたら気分が悪い。
でも、世の中は完全に嘘ってことはないし、完全に本当ということもない。
事実と、人の評価というのは分けることが難しいものだと思う。
例えば
彼女は、化粧が派手だ。
だから、遊び人だ。
これ、化粧が派手だは見た目の話で事実。
でも、だから、遊び人だ。とは限らない。
遊び人だというのは、「化粧が派手だ」ということから導き出された、話し手の評価だ。
何気なく人の話を聞いていると、「あぁ、化粧がねー、へーそぅ、遊び人なの?」なんて、
いかんいかん、そんな先入観を持っちゃ!
と思うけど、ある日その彼女を夜11時ごろ渋谷駅で見かけた。
ということがあったとしよう。
自分は、何か正当な理由、例えば残業だったとして、渋谷にいるわけ。
その時、自分と同じそこにいる彼女に対して「あぁ、そういえば、遊び人だって聞いたしね、こんな時間に渋谷でね〜。」
こんな思考になってしまう。
本当は、あなたと同じで、残業した帰りかもしれないのに。
事実は、渋谷で、11時に歩いていたというだけ。
それでも不思議と、私の中に「彼女は遊び人だ」とインプットされちゃう。
全く違う話だけど、週末、やっと気がつかさせられたことがある。
知人から聞いていた印象には、実は嘘がほんのちょっとだけ混ざってて、でも、よく知らないしなーというところに、ご本人とほんのちょっとだけ関わることがあって、その2つの情報により、私からはその人を正しく見る目は失われた。
直接お会いする機会でもあれば、また違ったかもしれないけど、それがかなわなかったりする場合なんて、いくらでもある。
そんな時、私は会ってもいない人に対して、苦手意識を感じてしまっているのだ。
でも、本当は、正しく、その人がやっている行いを見れば、少しくらいは自分と合わないところがあったとしても、曇りなき目で見るならば、違った見方ができるかもしれない。
でもそれは、インプットしてくれた人の嘘を暴くことにもなる。
それはそれで辛い事実だと、私は思う。
気がついたら、何れにしても傷つくんだ。だからと言って、誰かが言ったことが本当に本当なのか?嘘は混じっていないのか?そんなことはわからないのよ。
だからこそ、事実だけを見て、他人の評価は一緒にしない。
それこそ、その評価は、いずれもっと相手に対する事実が増えてきた時、自ずとできるようになるもんじゃないかと思う。
こんな間違いをするたびに、弱い自分や思慮深さのかけた自分にうんざりする。
それでも日々は流れていて、何をするにしても残り少ないのよ。
だったら、人が言った印象は印象として正しく受け取り、その上で、事実を元に行動しなきゃ。。。
なんとも釈然としないけど、そんなことなのよね。
- 【徒然】シーズングリーティングカードを贈ろう
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2016.12.14 Wednesday日頃、万年筆が好きでよく使っていますが、万年筆好きさんなのに、うまくできないことがあります。
それは、手紙を書くこと。
email、line、各種メッセンジャーなどが発達する前は、もちろんみんな手紙を書いていたわけです。
代表は年賀状かな?と思うけど。
今でも年賀状出される方は多くいらっしゃると思いますが、メッセンジャー等の手軽さに比べるとなかなかね。
メッセンジャー等が発達する遥か昔、私はうちの祖父によく手紙を出す子供でした。
彼がなくなってから知ったことですが、洋菓子の缶いっぱいに私の手紙を詰めてとっていてくれたそうです。
ありがたいなぁ。。。
まぁ、そんなこんなで現代、なかなか手紙を。。。ってことも起こらないかなぁと思ってたんですけど、こんな時代だからこそ、またその良さがありますよね。
昨日、お友達からシーズングリーティングカードを頂きました。
ここは台湾で、でも今や世界中から物が届いたり、発送できたりするので、国内にいるのと変わらずに手紙が届きます。
治安の悪い国だとそうはいかないようなので、ありがたいなぁと思うのです。
封筒からカードを取り出し、二つ折りになっているカードを開くと友人が私だけにあてたメッセージを書いてくれている。
すごく、すごく
嬉しいですよね。
なんだがわからないけど、すごくすごく嬉しい。
私が送るシーズングリーティングカードにも、送り先のお相手はそう思ってくれるかな?
とか、そんなことを想像します。
メッセンジャーとかって脳から直接言葉が漏れ出るように書かれるものだと思うから、本来の手紙とは全然別物なんだよね。
カードを前にして、送りたい相手のことを考えて、文章を綴る。
間違えたらカッコ悪いから下書きする。
何色のインクで書いたら、このカードに合うかしら?って想像をめぐらせて。
実際に書き始めたら、書きなれないから、やっぱりちょっと間違えちゃったりして
想いを込めたカードを封筒に。
宛名書きをして、切手を貼って送る。
慌ただしい12月だからこそ、そういうことに時間を使えるってのは、「贅沢」だなぁ、、、と、思ったりする。
そんなわけで、普段はやらないこんなこと、やってみるとちょっと心が温まる?かもしれませんよ。