- 【徒然】内と外の話 台湾だってグワンシ(關係)は重要なのよ
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2016.07.30 Saturday昨日の飲み会は超濃密で、書きたいことやら書けないことやら、まーいい経験をさせて頂きました。
改めて感謝
その中でのエピソードの一つに考えさせられるものがあったので、ちょっと思うところを。
少し昔のこと読んだご本に関係(グワンシ) 中国人との関係のつくりかたがあります。
その時書いた感想はこちら
【読書】グワンシ 中国人との関係のつくり方
昨日、ご一緒させていただいたメンバーの中に「台湾人のほんの数人だけど、ファミリーだ!とまで言ってくれる人がいる」ということを言った人がいます。
わー、すごいなぁ〜
台湾人の仲良しさんいっぱいですもんね〜
と思うのと同時に私の頭に「グワンシ」の言葉がよぎります。
そう、台湾人と中国人は違う、違うけれども、中華圏に流れる根底「グワンシの考え方」は彼らの中に確実にあると、再認識させられる瞬間でした。
グワンシという本を読んだのは2014年11月のことです。
私が台湾に行こうと決めたあとに読んだんだなぁ〜。
だけど、その当時、台湾が中華圏だって意識も微妙だったから、本と台湾人は繋がってなくて、台湾に行く準備で読んだとかではまったくないです。
(これからはアジアだからな!ぐらいは思って読んだかも)
さて、一見すると人懐っこくて世話好きな台湾の方々なので、日本人の中にも旅行先の台湾で、楽しくお話ししてくれるおばちゃんや若い人なんかに会ったことがあるかもしれません。
いい国でしょ〜
ご飯美味しいし。
まー、綺麗かって言われると微妙だけど、エネルギーに溢れちゃってる。
人懐っこいし、すぐに仲良くなれちゃう〜
いいよね〜台湾旅行って。
台湾人の側にしてみても、旅人とは一期一会、人懐っこく、そして良い感じに見せるほうが圧倒的に得だ。
だから、ほぼほぼ100%人当たりがいい。
でも、旅人とは、2度と会わないかもしれない。
その関係、仲間ではないよね。
私の場合、旅行ってわけじゃなくて、住んでるわけで、台湾人との関係性も、旅行のそれとはちょっと違うんだな。
そんな葛藤の中
2016年の6月、そうちょうど1年くらい前ね!に書いたブログがこちら
【徒然】仲間を作ること
この頃は仕事に葛藤してた頃。
文章からありありとその頃の苦悩が伺えますね。
今、ちょうど台湾に一年半位いますけど、実は台湾人と仲良くなるのは、思ってた以上に、想像しているよりも、はるかに難しいんですよ。
身を以て体験しましたし、今も継続中です。
何が難しいってね。
仲間とみなしてもらうのが難しいんだよ。
その去年の6月に書いたブログで言っているように、その頃から、上司に言われること、言われること、全部反発せずに「Yes」と答えて、こなしたんだな。
「もっとこうすれば。。。」
って、そんな意見が私の中になかったわけじゃない。
もちろん長いこと日本で勤めてたしね。ある程度、正直なところ彼らよりも、わかることもある。
でも、言っても理解してもらえない日々が続いて、、、のあのブログだったのね。
今でも覚えてる、結構苦しかったからね。
そして、思ったこと。
彼らはどうやって、仕事を進めようとしているのか、さらには私がやりたいことを、相手に『ぷぅコッコのために、やってあげよう』と思ってもらうには、私は、どう動けばいいのか?
それにはさー、多分、色んなやり方があるんだと思うけど、私ができる、というか、やろうと決めたことは「断らない」ということだったのね。
それで、まずは仕事。
思ったことはいっぱいあったけど、とにかく言われたことをこなすことに務めた。
いや、本当に務めた。
でも、そこは私の持てる技術、必ずしも発揮できる場所とは限らないけれど、断らないって決めたから、yesっていうでしょ?そこは、ホント初めましてという課題の場合も少なくない。それでも、エンジニアとしてのスキルだけではなく、例えばパワーポイントの資料作りだったりするけど、私が日本でできるようになったいろんなスキルを踏まえて、それにそって、「かなり真面目に!」進めてみた。
真面目にやると、仕事量というのは増えるもの。
細部に手を届かせようとすればするほど簡単ではない。
でも、その頃はまだ余裕があったのよね〜〜〜。
だって、そもそも相手は長期戦で私をお試しにかかってるようだったから、仕事に多少工夫したところで時間的には余裕。
そもそも課題自体が多くなかったし。
そんなことが一つ。
そして、生活面でも断らない。
これは半分本当で、半分嘘。
というのも、私にとっては家族が一番大事なので、家族の予定は優先。
息子の習い事のお迎えがある日に、食事会があったとしても、それはごめんなさいしてました。
それ以外のこと。
例えば、台湾の人は下午茶(午後のお茶のこと)とかお取り寄せが大好きなのね。
グループの女の子でも、そういうことの幹事をやってる子がいて、ある時、声をかけてくれたですよ。
「あなたも一緒に買う?」ってね。
気を使ってくれたんでしょうね〜
もともと私も食べるのは嫌いじゃないから、もちろん嬉しかったし、よかったんだけど、
この時の「一緒に買う?」ってお誘い。
実は逆の立場に立ってみると、結構相手も緊張してると思うんだよね。
だって、何を考えてるかわかんないじゃん。
この日本人。
そこで、思ったこと。
『ここで、断ったら次はないな』
断らなくても、実はないかもしれないけど、断ったら絶対に次はない。
だって、私なら、一度断られたら次は誘わないもん。
だから、去年の一年間
誰かから、何かを「一緒に買う?」って聞かれるたびに、全部買ってみた。
いわゆるタピオカミルクティーも、伝統的な台湾の甘いお茶とか、フルーツティー的なものなど、それこそ、何度飲んだかわからないし、お昼のお弁当、不思議な台湾の名産や、みんなで買ったタイ製のポッキーなんてのもあったなぁ〜。
その度に
「これは何?」
「これは何がオススメ?」
「これなんて読むの?」
聞きまくったね〜。
そうしたら今は一年半だけど、別に自分が必要ないものは、買わなくても、ちゃーんと毎回誘われるようになった。
誘えば買うと思われてるだけかもしれないけど、それでもいいじゃん。
途中からだったら、どうやってその仲間に入ったらいいか、私にはわかんないんだもん。
そんなことをしてるわけだけれど、私のことを「ファミリー」だと言ってくれる人は、まだいないかな。
それでも、少なくとも今のグループでメンバーであるということは、ちゃんと多くの人に、思ってもらえてるみたい。
よかったねー、ぷぅコッコさん
徐々に『ぷぅネーサン、もしかしたらこの技術について知ってるかも?聞いてみようかな?』と、質問に来てくれる子がいたり、ちょこっと美味しいものを内緒で分けてくれる子がいたり。
いいじゃない?
そして、お仕事は、、、
ありがたいことに、ものすごく忙しくさせていただくことに。
いやいや、そんな強烈に信用していただかなくていいですよ。これ。
『全部こなせるのか?これ?』
みたいな日々が実は今年度はすでにずっと続いてて。。。
1年前の暇ぶっこいてた私はどこ行ったんだか。。。こんなことになるとは。。。「全部Yes」効果絶大すぎる。
単に便利だと思われてるだけかもしれないし、いやいや、むしろ給料もらってるんだから働け!なのかもしれないけど(それはそれで当たり前である)
「こいつに頼めばできるな」
くらいは思ってもらえたってこと?かな?
そんなことを踏まえて、改めて思うこと、それは実は台湾人と仲良くなるのってすごく難しい!ってこと。
それは慣習が日本とは絶対に違うから。
それはもしかすると、日本の会社に外国人が来ても同じかも。
日本人と仲良くするのは難しい。
でも、その難しさと、この難しさはまたちょっと違う。
そうやって、私の『内』は台湾になり、台湾の中でどうするのか?台湾人ならどう思うか?台湾人にはどうアプローチすれば仕事が円滑に進むのか、そんな、日本にいたままではまったく知りえないようなことが徐々に溜まっていく。
それと同時に私の『外』に日本が置かれる。
日本人が外国に対してやろうとしていること。
日本人が日本の中でやっている行動。
とても変だなと思うことがいくつもある。
それと同時に、自分の当たり前だと思っていたことが、実はすごく恵まれていることだったり。
曖昧な指示で通じ合えるのは、日本独特というか、慣習というか、言葉と慣習が織りなす民族性ならではだということで、それが実に楽だということにも気がついた。
私の『内』と私の『外』
それらが私の中で、きっとこれから、もっとどんどん変わっていって、私の視点に変化が起こる。
そんな予感がするね〜。
そうした上で、私はどこに立つのが。
未だ、道半ば。
でも、やってることはさほど間違ってはいないかなと思ってる。
まっ、不器用なやり方で時間もかかるけど、私にはこれしかできないから。
これでいいかな?
最後に、アジア、特に中華圏でお仕事するかた、関係(グワンシ) 中国人との関係のつくりかたを一度お読みになったほうがいいですよ。
必読です。
まー、台湾人と『お客様』として働く分には別に大きな問題にはならないと思いますけど、台湾人もメンツをかけて、仕事してるので、お客様には丁寧だし人懐っこいし。
でも、それは仲間じゃないからね。
そこまでと認識してもらうのには時間がどうしてもかかるよって話でした!
- 【徒然】キャラクターされどキャラクター
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2016.07.30 Saturday昨日は、会社の同僚といっても少ない日本人メンバーとしっぽり飲み会してきました。
久々にお酒飲んだ〜(といっても一杯だけだけど(笑))
私の会社はすでにブログ読者の方であればご存知の台湾の会社で、会議は英語、または中国語なわけです。
それで、日本人がホストの会議はありがたいことに英語で行われることがあるわけですが、、、そんな会議でのこと。
普段は私、積極的に話すわけでもないですが、それでも、コメントしたり、自分のセクションの進行に関して意見を言わなくてはいけない場面は当然ありまして、、、今回もまた、英語でコメントする!ってなことがちょうど昨日ありました。
その会議のホストが、先に言った昨日の読み会のメンバーの一人。
飲み会といっても3人で飲んでたんで、超濃密会話の数々でした。
あまり日本人の前で、英語を喋ることがないのと、正直、いろんなトラウマがあって喋りたくないのとがあったんですけど、仕事だから、喋りますよね?
でも自信がないから、その時ご一緒した日本人同僚に「私の英語、大丈夫でした?」と聞いてみたんです。
すると彼は「全然できないって聞いてたけど、いや、普通にすごくできるよねっていうか、ものすごく驚いたんだけど。問題ないよね?むしろその発音とかなんかどこでやったの」
「いやいや発音とかはまーいいとしても、文法とかめちゃくちゃだから、その大丈夫かなぁと思って」
「大丈夫、逆に普通にできるからものすごい驚いてるよ。いやさー、ぷぅコッコさんは、採用面接のときにあまりに英語できないから、日本語ができるお偉方に通訳してもらったって話を聞いたからさー、よっぽどこの1年とか台湾で英語の猛勉強したのかと感心したよ。」
ん?
は?
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役員面接で、役員に通訳してもらう?だとぉ?
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さすがに私がどんなにあんぽんたんでも、、、それはなかろう。
まっ、結局、この話は
「一応、英語で面接しましたよ。(はちゃめちゃでしたけど)少なくとも役員が通訳とかそんなことはなかったなぁ〜ははは〜」
なんて、話に華がさきました。
いやいや待て待て、、、
できるできないの前に、普通に考えて、さすがにそんなことないだろ〜。。。
楽しく談笑したあと
帰り道で、「あの話はさすがに驚きましたよ。確かに英語できないけど、どんだけ盛られて伝わってるんですか。。。もう、「英語できない」って言うのやめよう。台湾では」
と同僚に話すと。。。
「いやさー、でも、そう言われて、『それは絶対ないな〜』というよりも『ぷぅコッコさんだったら、そーかもね〜、へー』ぐらいの感じよ。そんなキャラだもん。」
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えっ、この話って、、、役員に通訳させたとか私ならありなの?
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どうやら、豪快かつ、はちゃめちゃちっくな性格?キャラクター?のおかげさまで、一見ありえなさそうなシチュエーションであっても受け入れちゃうらしい。。。
そんな感じに見えてるんだって。
いやっ、話としては面白いけどさ。
そっ、そんなことはしないよ〜。。。
キャラクター、されどキャラクター
今後、ますます磨きがかかってゆくのかもしれません。
いいのか?それで?
教訓があるとすれば、苦手意識があるとしても、むやみに「できない」と言ってはいけない。。。
メモっておかなくてはいけません。
- 【顔料インク】パイロット カクノで顔料インクを使ってみる1
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2016.07.28 Thursday顔料インクは怖いんだよ〜という話を前に書きました。
リンクはこちらから
顔料インクと古典インクの話4
私は顔料インクを固めたことがあって、万年筆一本ダメにしかけましたので、人一倍顔料インクを使うことにかけては「ドキドキ感」が否めないわけです。
固めちゃった話はこちらから
青墨がすごい
ではでは、廉価版万年筆の代表格
超人気のカクノさんではどうなのか?
顔料インク×カクノ
で使われてて、問題ないよ〜
って方ももちろんいらっしゃるんですけど、ぷぅコッコさん的使い方で、どうなのか!?
実験してみることにしました!
ということで、
カクノ と セーラー ストーリア Night
用意しました〜
え?そこは青墨じゃないのかって?
スンマセン、手持ちカートリッジしかなくて、セーラーさんの万年筆ならいくらでも試せるんですけど、カクノはパイロットさんの万年筆だから。。。
まっ、とはいえ、ストーリアもれっきとした顔料インクですので、固まったら終わりです。
それは青墨も、プラチナさんのナノインクたちもたいした違いはありません。
所詮、顔料は顔料です。
今回、コンバーターは自身初のCON-40一番新しい型のものですね。
ショートのタイプはこちらに移行するらしいので、新定番かな?
ちょっとわかりにくいですけど、コンバーター内部に棚つり防止用のボールが3つぐらい入ってます。
これがないと、インクが尻軸側にへばりついて、降りてこないって現象が起こってしまいます。
そのことを「棚つり」というんですね。
ストーリアのNightって個人的には、パイロットのブルーによく似てると思うんですよ。
パイロットのブルー大好きな方で、顔料試してみたいわ!
って方にはオススメかも。
CON-40はじめて使いましたけど、なんだか、、、棚つり防止用のボールのが邪魔していっぱいまで入りませぬ。
CON-50も小さくて、すぐインクがなくなっちゃうコンバーターでしたけど、このCON-40もまぁ、あんまり入らないですね。
普段はあまりコンバーター使いしないのと、コンバーターで使うものは大型のCON-70での使用が多いので、ぷぅコッコとしてはだいぶ不満です。
やっぱり私はカートリッジが好きだわ〜
まっ、他社さんのインクを入れようとしてるわけですから、カートリッジが合わなーいと、泣くわけにもいきませんね。
さて、結構会社の机に置きっぱなしする癖があるので、今回のカクノさんも通常使いな感じで、置きっぱなしでいこうかと考えています。
いま、セーラーさんの打ち水にも同じインクが入っているので、使用頻度としても、一本を丁寧に使う方よりは少ないかな?
まっ、どーなりますかねー
- 【徒然】リミッター外していきましょい
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2016.07.27 Wednesdayわたしは語学が苦手である!
と、思ってるんです。
完全に刷り込みね。
人生で投げかけられた「ひどい言葉」を書こうかと思ったけど、やめました。
そんなもん覚えてたからっていいこと何もない。
もしかしたら、いつの日かわたしの頭からこの「言葉たち」は完全にいなくなるかもしれないのに、記録に残すなんて、アホですもんね。
(多分、この話って何回も書いてるし)
努力をした人にとって、「大した努力もぜずに?」「ハチャメチャな喋りで?」羽が生えたように日本を飛び出し、曲がりなりにも生きているなんて、受け入れがたいんでしょうね。
確かに同じことはできないかもしれない。
確かに同じことはできないかもしれないけど、「同じことをする必要はあるの?」
同じことをしないと「できるようにならないの?」
半分あってて、半分間違ってる。
わたしは心の中に大きなリミッターを置いて、それに近づくと「できない」と信じて、体を固くしてやめてしまう。
こと語学についてはその繰り返し。
でも、そのリミッター、、、その足枷のようなもの、、、もう外していいんじゃないだろうか。
昨日のこと、ちょっと仕事の合間、時間が空いたので「簡単ディクテーション」をやってました。
これは、30日で英語が話せるマルチリンガルメソッドに出てくるんですけど、英語を10分間、聞き流して、その中に出てくる単語をひたすら書くというもの。
本当のディクテーションは一言一句間違わずに聞いて、書くという動作のことを言うんだけど、「簡単ディクテーション」の場合は、耳に聞こえてきた「音」をどんどん書く、ノート自体は、意味が繋がらない部分がたくさん出てくるんだけど、いわゆる耳ならしね。
そしたら、その途中に同僚が来て、
目を丸くしながら
「今、ちょっといいかな?」って。
「はいよ」ってな感じで直ぐにやめて、仕事の話。
ここで日本だったら(日本で、仕事の合間にこれができるか?という疑問は置いといて)きっと「何やってたのぉ〜」って話がはじまりそうだけど、台湾の方、特に日本人がものすごい勢いで英単語をノートにビッチリ書いてても気にしませんから、直ぐに仕事の話。
そして、要件終わったら終了。
もしかしたら、台湾人同士の時に、「ぷぅネーサン、なんかものすごい勢いでノートになんか書いてたわー」って噂話をしてるかもしれないけど、わたしには伝わってこない。
放って置かれてるんだね。
誰も他人のこと、特にそんなところ気にしてない。
「ちょこっと間違ってる」
とか
「わかりにくい」
とか
言ってこない。
もちろんわからない時には「は?何言っての、わからんわい」って言ってくるよ。
でも、それは全体として私の説明がうまくないってわけで、手を替え品を替えしてガシガシ伝える。
(まっ、それでも伝わんないと、話は終わってしまいますけれども)
まーとにかく、「そこは単数じゃなくて、複数だよねー」とかそんな文法上の指摘はない。(こと英語については相手もある程度は適当だし)
英語の場合はそうで、彼らの母語である中国語(北京語)の場合はどうかというと、もし、こちら側が間違っていたら、確認のためも含めて、無意識に正しく言い直してくれるんだな。
それは、間違いを指摘しようとしてるんじゃなくて、「正しく伝わるために確認してくれている」というわけだ。
そして、昨日は、さらに嬉しいことに、久しぶりに会う台湾人の友達とご飯にいったら「ぷぅネーサン、中国語進歩したね〜」って。
自分の中では、まだまだ全然ダメ。
みんなの言ってることでわからないことも少なくない。(友達の場合は、中国語だけじゃなくていろいろ駆使してるからわかるけど、場面、場面では、てんでわからん(笑))
それでもそう言ってくれる人がいる。
そして思う。
「もっとみんなと喋れるようになりたい!」
そして冒頭に戻る。
そんな欲求もないままに勉強したり単語を覚えたりするのは基本的に無理。
だけど、今は、、、
英語は、、、あんまり困ってないというか、誰も間違ってるだの言わないから適当にコミュニケーションできる。
それでも、やっぱり足りない。
もっとできたら、きっともっともっと友達ができると思う。
中国語に関しては、もっともっとできるようになりたい!
それも、やっぱり圧倒的に足りてない。
だから、リミッターだの何だの言ってる場合ではなく、単語覚えたりなんていう地味な作業と真摯に向き合おうと思ってる。
私は、語学、苦手じゃない。
間違えなく、もっと先に行ける。
重い足枷はもういらないな。
きっと、誰かに何か言われたのはきっかけにすぎなくて「だからできない」と、安直に足枷をはめたのは自分で、さらに「単語の羅列を見ても何も入ってこないよ。。。」ってなったのは、「脳内に拒否するプログラム」を組んだ自分のせいなんだな。
所詮、心の問題。
でも、その心の問題が大きい。
それでも、今度はできそうな気がする。
なんたって、コミュニケーション楽しいからね〜。
何がどうってわけじゃないけど、素晴らしいな!
- 【読書】20歳の自分に受けさせたい文章講義
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2016.07.24 Sunday
20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)
まさに同時期に2人の友人から勧められたこのご本。。。
いや〜本当に熱いご本でした。
ブログなんてものをボチボチ書いている私ですが、実はつねづね、ちょっと自分は人とは違っているなと、薄々感じておりました。
その違ってることは何なのかってのモヤモヤしててよくわからない。
だけど、なんか違ってる。
まっ、それはそれとして、私の人生の根本的なスタンスは「会話も文章も面白く」です。
アダルトチルドレンという言葉は、ご存知の方もいるかと思いますが、心理学では、自分が疲れるほどに盛り上げ役に徹して、疲れてしまう人のことを、その中でも「ピエロ」というのだそうです。
その特徴は「話を盛り上げなければ存在意義がないんじゃないか?」とか、「それでこそ認められる自分ではないか?」と無意識に思い、やたらとはしゃいで疲れてしまうってことなんですけど。
自分もそーかな?と思っていた時期も確かにあります。
確かにありましたけれども、それはそれで、「盛り上げることに疲れちゃうようなところ」とか、「盛り上げるのに疲れちゃうような人」とは会わなきゃいいよねぇ〜と思うようになりました。
(実際、会ってないしね。)
とするならば、難しい話は抜きにして「会話は面白く」が基本であろうということです。
では、書く方はどうなのか?
書くのがうまいか、うまくないか?という議論は傍に置いて、私は書くことが好きです。
これはもう、間違いないと思います。
とくに、こういったブログなんていう媒体に関して言えば、文字数制限もないし、紙面というか文字の感覚や、行を開けることによる変化のつけ方、それに加えて、自分の好む論理展開。すべて勝手にやっていいわけで、もう、こんな面白いことはないわけです。
いやー、仕事にしてなくて、書いたものが他の誰かに読んでもらえるなんて、すごいことだ。
と、思ってるので、文章講義の類の本を読もうと思ったことがほとんどないんですね。
どうすればアイデアを構築できるか?とか
湯水のようにアイデアが湧いてくるにはどうすればいいか?とか
そういうことは興味があって、「ノート術」だったり、「思考法」だったりって本は割と好きでよみますけど、アイデアさえ出て来れば、別に文章を書くことに不都合を感じたことはほとんどないです。
うん、これだけ見ると「やな奴」ですな。
ブログ書くのに苦労している人たちからすれば「なんて、いやなことをいう奴なんだ」と言うことになるのかもね。
でもね、こと、ブログだけに関して言えば、商用で必要があって書いてる人を除いて、個人的に書いてるってだけで、アイデアも出ないし、文章書くのも嫌いだ。。。ってことであるならば。
そんなに、そんなにも嫌であるなら「やめちゃえばいい」んだよ。
そもそも、この「文章で何かを伝える」という表現方法が合わないってわけ。
文章って、顔も見えないし、読まなきゃなんないし、結構大変。
それならば、今はYouTubeとか画像系の媒体もいくつもあって、文章もよりめちゃめちゃ伝わるよね。
その方がいいじゃん。
本当に苦しいなら、文章にこだわるのはやめたらいいんじゃない?
って思ってました。
だけど、実は文章ってブログにかかわらずついて回るんですよね。
この本を読み始めて、まずはそんなことに気がつくことになりました。
何気ないメールの文章ですら、書かなければならず、最近はコミニュケーションのツールとして、重要視されています。
まっ、ぶっちゃけ、この傾向もあと5年もすると、また別の媒体に取って代わってしまう可能性は大いにあると思っているのですけれども、少なくともここ2、3年はこんな文章もまみれな生活に耐えなくてはいけないというわけ。
だから、実は「文章術」というのは不幸なことに、ますます重要視されているわけです。
そうだとして、この「文章講義」が、文章を書くことを苦手としてる人に効くのか?ということは、私自身は別に苦手じゃないから、わからないです。
わからないですけれども、本書に書かれる指摘は的確だということはわかります。
正直なところ、自身、読みながら、いくつも本に印をつけました。
この本がみんなに伝えること、というのは「文章がうまくなること」ではなくて、「自分の考えていることを正しく伝える文章を書けるようになる」ってことなんですよ。
これね、すっごい難しいんだな。
本当に簡単じゃない。
ブログを書いていると、たまにですけれども、ブログの感想をいただくこともあります。
「ぷぅコッコさんの〇〇という考えに賛同しました!」って書かれていることが、私の考えてることとは、、、180度とは言いませんが120度ぐらい違っている時、もー本当に、どーしたらいいもんかと本気で思います。
結局、その時の私の文章は、感想を書いてくれた人には、ほとんど正しく伝わってないってことです。
ある一面では、人が考えたり、創造したりすることというのは、「各々個人の考え」に基づいているわけですから、何かを読んだ時の感じ方も、違って当たり前です。
その前提はあるにしても、「伝わってほしいことが伝わらない」のは不幸なことです。
だから、この「文章講義」を受ける必要があったんだなぁ〜と、しみじみ思ったんですね。
ちなみに、本書に出てくるリズムの話も想定読者の話も、私も今まで言葉にしないまでも思っていたことです。
(なんか後出しじゃんけんみたいでカッコ悪いですけど、だって、そーなんだもん。。。)
「そーか、そーか」とうなづきながら読んだご本ですが、私の中にも、課題を与えてくれました。
最後に出てきますが、「何を書かないか?」ということについてです。
そう、編集の能力。
これはこれから、さらに磨くべき課題です。
勧めて下さった友人はきっとなにか私に伝えたいことがあったんだと思います。
(いや、ないかもしれないですけど、そうだと思いたい!)
それを私が受け取れたのか?
というのはわからないですけど、私が文章を書くことを止められない、一つの要因には「人に何かを正しく伝えたい」という欲求があるんだろうな、と自己分析したりして。
そして、そのためにはもう一歩、今、一歩近づくためにできることがあるのではないか?という指摘だったんじゃないかと思えてなりませんでした。
この本は、熱く、そして面白い!
文章を「書いている」という自覚のある方はぜひ手にとって読まれることをオススメします。
っていうか、普通にデスクワークしてる人は、読んだ方がいいんじゃないかな?
「書かない」なんて今や日常生活ではありえないし。
テクニックだけど、テクニックとはまた違う、「正しく伝えること」について考えるきっかけになると思いますよ。
- 【徒然】顔や態度は口ほどにモノを言う
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2016.07.22 Friday先日、自分の小さな「箱」から脱出する方法と言う本を読みました。
このご本、ものすごく私の琴線に触れるご本でして、感想を書こうと思ったんですけど、「無理」でした。
いつか書けるかもしれないけど、考察に時間がかかりすぎて、というか私の感情、感想の全てを文章として綴ることに限界があると感じるほど。
まっ、というわけで、書けないんだけど、この本にあることで「全くもってその通り!」と思ったことがあるのでちょっとシェア。
これまで、このブログ、とくに「徒然」のカテゴリーの中に書いてるけど、自分の思っている自分と他人の思う私は別の人間だというやつね。
この辺が参考になるかな?
【徒然】他人の評価などあてにしない
これ、「こうみてほしい」と繕った自分も相手に「そう見てもらえる」ことは「ない」ってことなんだね。
例えば、「こいつ、、、苦手なんだよなぁ〜」と思って、話しかけると、「どんなに朗らかに笑顔を絶やさず話しかけても」苦手なまま。
当たり前じゃん?
って思った?
違うだよ。
「苦手だなぁ〜」と思って話しかけてる時点で、相手にもその「苦手だなぁ〜」が伝わっちゃってるんだな。だから、どんなに笑顔で対応しても相手さんも「こいつなんか嫌や」みたいな感じになっちゃう。
まさに、顔だけじゃなくて、無意識な態度が勝手に「あー、苦手だわ〜、ぶっちゃけここにいるのも無理」みたいな感情を伝えてくれちゃってるわけ。
全くもって迷惑な話だし、「苦手だけど、笑顔で話しかけよう!」とか一大決心をした自分はなんだったんだ。。。
ポイントはそこ!
どんなにテクニックを使って、相手をコントロールしようとしても、自分の奥深くの根本のところで「相手を認めていない」というのは実は滲み出ちゃってるってこと。
怖っ
でも、ほんとそうだなぁと思う。
こんなことが本の中でもまず指摘されてて、いやはや、全くその通り。
そんでもって私は苦手な人に話しかけるにあたって、「あー、この人苦手なんだよなぁ〜」って思ってたことに気がついたんです。
話しかける前に自分ですりこんじゃってる。
そりゃどんなに笑顔でも伝わるわい。
え?ほんと?
そう、ほんと、確実に伝わる。
じゃあどうすればいいのか?
それは
どんなに状況にあっても、相手を人として尊重する。
ただそれだけ。
そんなのいつもやってるよって思うでしょ?
でも、実は嫌いな人とかって、無意識ではないがしろにしちゃってる。そういうことなんだよ。
それで、「苦手だなぁ〜」って思う人に話しかける前に「苦手だなぁ〜」と思っちゃったら(無意識だからね、しょうがない)そう思ってる自分に気がついたら、「よし、相手を尊重しよう!どうであれ」と思って話しかけることにしたんだな。
嫌いな人とか苦手な人って、好きになるのは難しいよ。
なんか合わないことがあるってことだからね。
でもさ、それでも「人として尊重する」「人として尊重しよう」ってのは別に問題ないよね。嫌いとか好きとかそういうことじゃないから。
そんな心持ちなだけだけど、着実に伝わってると思う。
言ってることは全く同じでも、心持ちは全然違う。
あー、やっぱり顔、態度、心の中、伝わっちゃうのね〜。
言葉では埋められないコミュニケーションがむしろ横行しているということに気がつかないと、なかなか良好な人間関係を築くのは難しいねぇ〜としみじみ思うのでした。
- 【読書】決め方の経済学__「みんなの意見のまとめ方を科学する」
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2016.07.20 Wednesday
「決め方」の経済学―――「みんなの意見のまとめ方」を科学する
こちらのご本、先に言いますが、「買いです!」今年一番かどうかはわかりませんが、少なくとも今年読んだ本では一番いい!この先これ以上の本が現れたとしても3位までには確実に入ると思われる極上の一冊です!
ある編集者さんが自編集著書でないにもかかわらず「強烈にオススメ」されてまして、「彼女がそこまで言うならアタリだな!」と思いまして、急遽日本より取り寄せました。
(世界が便利になって嬉しい限り。)
さて、本書の感想を書いていきます。
「決め方」の中でもとくに多数決というのは、民主主義的な決め方の最たるものであると勝手に思っていましま。でも、よくよく考えてみると先のイギリスのEU離脱決定にしても大変な僅差であったわけで、決まったには決まったものの、イギリス国民が決定したこのことは、果たして本当に民意が反映されていたのか?という口に出せない(出してもいいけど)モヤモヤが残るわけです。
勝った方はいいかもしれないけど、負けた方は真逆の考えを示していたように、この場合は見えるわけで、それらの意見は一切無視されるというわけです。
投票した翌日から、100%の人が賛成というわけでもないのに、賛成だとみなされてしまう。
冷静に考えると「決まったんだから従え」というのは、とても暴力的ですよね。
では、そもそも「多数決」とはどんなもので、多数決によって得られる結果は果たして何を示していて、本当はどのような場面で使うのが良いのか?
また、多数の人が重要な決定をする際に、「多数決」を使わないとしたら、どのようなルールを使用することができるのか?それはどんな点で「多数決」に比べて「より民意を反映する構造」となっているのか?そして、それらに矛盾や抜けはないのか?
そんなことが次から次へと本書の中で提示されていきます。
この本を読んでいたのはまさに「参院選の開票日」だったので、タイムリーであったことと、この参院選や今回のアメリカ大統領選挙に関連付けて話が展開されるので、「多数決がいかにリスキーか?」ということを実感するわけです。
そんな意味でも、読むなら今がいいですよ。
まさに「多数決という、かなり暴力的な方法」で歴史は動いています。
一方で、「多数決」以外の方法を取っていれば、なしえなかった奇跡も歴史上には存在します。
そう、他の方法では、負けているはずの候補者が唯一「多数決」では勝てるという場面。
歴代アメリカ大統領選挙にはいろいろな番狂わせがあるようですが、それこそが「多数決のなせる技」でもあり、それらがまさに歴史を作っているのです。その歴代大統領の中でも、リンカーン大統領の功績には、少し教育を受ける機会に恵まれた世界の人なら、誰でも知っている「奴隷解放宣言」があります。そして、そんなリンカーン大統領はまさに「多数決」以外の方法を取っていれば大統領に選ばれなかったという事実があります。
そう、あの歴史的「奴隷解放宣言」はまさに「多数決のなせる奇跡」がおりなした画期的成果で、もしも多数決出なかったら、未だに奴隷解放宣言はなされていなかったかもしれません。
多数決は暴力的である。
それでも多数決でなければ、なしえなかった歴史上の事実もある。
加えて、いい意味でも悪い意味でも民意を必ずしも反映したものとも言い難い。
この本の秀逸さの一つは、まさに「多数決」に対して多くの人が抱いてきた「なんか違くない?」っていう感覚をその周りの霧を晴らすかのように、答えてくれることです。
その展開は切れ味が鋭く、ついていくのがやっとというような濃い内容です。
でもそのテンポの良さは読者の興味を先に先に向けてやまないのです。
先にご紹介した「編集者さん」も自身ののFBのポストで述べておられましたが、この本のもう一つの特色は「多数決」よりも「より民意を反映させる決め方」が存在することを提示し、並べておしまいではなく、良い部分、悪い部分も含めて説明した上で「それでは何が最適なのか?」という答えまで導くところにあります。
出しっぱなしではなく、結論をまで導かれます。
とても心地よいです。
確かにこの方法なら、民意をより鮮明な に反映できると確信するのです。
(その方法についてはご本の方に譲りますね〜)
では、「多数決」ってのは、どんな時に使えばいいのか?
著者さんは言います。
「どうでもいいことを決める時に使えばいい」とね。
どーでもいいことってなんだよ?
って思いますけど、こんなことです。
5人のグループでお昼ご飯を食べに行くとして、「今日のお昼はイタリアンにするか中華にするか多数決で決めよう!」そんな場面。
お昼になんか食べたいなぁ〜と思ってたとして、みんながイタリアンに行くと言ったら、まー、イタリアンに行ったからといって、食べられないわけでもなく、お腹は満たされる。
なんとなくハッピーだしどっちに決まってもたいした問題もない。
そんな場面です。
そう、ほんとどうでもいい。
でもスパッと決めた方がいい時には、多数決は実に有効。
そんなこともプラスされて、まぁ〜とにかく面白いです。
最後の最後のまで、うなりっぱなしだったんですけど、最後の方で「このめちゃ面白いご本を書く人はどなたなんだろう」と、著者さんは略歴を見てしまいました。
なるほど、私と同年代ですでに教授職についてらっしゃる。これは優秀だわ。
話が面白いはずだ。
と、まぁ、とにかく驚きの連続で、こんな学問があるのかと、「行動経済学」の本を読んで以来の衝撃を受けたのでした。
とにかく、この驚きをまず共有して頂きたい。
その上で、「決め方」について今一度議論できる世の中になったらいいなと思います。
歴史の流れには抗えないかも知れないけれど、これまでより「より民意を反映させる方法」は確実にあります。
そういった方法を駆使して、同じ歴史を繰り返さないということは実に重要なことだと感じています。
ぜひ!チェックしてください。
ぷぅコッコは著者さんの別のご本も読んでみたいと思います!
- 【徒然】有言実行
- 【徒然】脆くできている自分を乗り越える
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2016.07.16 Saturday他人にどう見える自分であるか?
ということは、考えたところでわからないので、一旦脇においておくとして。。。
というのも、こんなブログを書いているせいなのか?どうなのかはわからないけれど、ブログを先に知ってくださってて実際にお会いすると、結構な確率で言われることの一つが「想像してたのと違う感じですね〜」という感想だったりする。
そう、まだお会いしたことのないブログ読者のみなさん、どうやら実物とは違うようですよ。
強い言葉で書くこともあるので、その印象もあるのかもしれませんね。
うーん、どーなのかなぁ〜。
結局のところ、よくわからない。
その昔、「人の全ては外からは見えないでしょ?」と信頼する人から言われたことがある。
その時はこんな当たり前のことなんだけど衝撃を受けた記憶がある。
そう、私が見ている他の人は、その人が考えるその人とはまた別の人。
そういう少しずつのズレで社会は成り立っていると思う。
だからどんな風に想像されてて、実際にあったら、どんな人にみられたとしても「私はそんな人じゃなーい!」ってカミングアウトすることに意味はあんまりないなぁと思っていたりする。
さてさて、このところ、体調不良だったことも手伝って考えもまとまらなくて困ってました。
きっかけはまぁ〜いろいろあって、何かが引き金での体調不良なのか?体調不良だからこそ思考が定まらないのか、どちらが先かはわからないけど、何も手につかない状態が続いてたなぁ〜。
自己分析の結果では、これは私の「脆さ」によるものだと思っているんですね〜。
「脆い自分はダメだ。」
という、なにやら、もやもやした罪悪感のようなものを引きずって生きてて、それを緩和するためにいろいろやってきたけど、たまーにこうやって脆い自分に出会うと、なにも手につかなくなる。
「頑張っても、私は脆いままか。。。」
と、悲しくなったりもするわけなのよね。
そんな時は、本当にいろんなことが手につかない。手につかないんだけど、やらなきゃいけないこと、例えば仕事なんかがそうだけど、そういうことはいつも存在してて、それをすると疲弊するから、追加でやること、例えば自分のための勉強だったり、読書だったり、自分のための運動だったり、積極的に休みを取ることだったり、「自分のための何か」が、ひどくおろそかになる。
きっかけが思いつく時はまさに「あんな程度のことで、なにも手につかないとは、相変わらず脆いなぁ〜」と、思いつつも、体調不良に陥ったり、自分のことがおろそかになったりするのは2週間くらいは余裕で続いて、それらを一通り味わった後で、やっと、改めて「あー、脆い自分だから、ここのところなにも手につかなかったのか」と納得する。
今はまさにそんな時期で、
「やっぱり自分は脆いじゃん」と気がついたのが今!というわけ。
この脆さは多分、他の人にはわからないし、他の人はわかる必要もない。
なぜなら脆さとの戦い、ときには脆さを受け入れることも、全ては私の問題で、他の人のものではないから。
でも、これでも、脆くでボロボロになってなというところからの回復というか「脆さが原因であったと気がつくまでの時間」はこれまでの人生をへて、ものすごく短くなったと思っているし、こじらせ過ぎることはなくなったと自負しているんだな。
それでもこの「脆さ」はなくならない。
なくならないことは今までも何度も経験したからもうわかってる。
だから、今の課題は、その「脆さ」によってできたほころびを広げないことだったり、手につかない状態からいかに早く脱出するかってことだったり。
そんなことかなぁ〜と思う。
自分は打たれ強くもないし、脆いと思う。
でも、それでいいんだよ。
脆いことに気がついて、「あー、結構傷ついたのねー」と自覚して、また思考できるようになったり、自分に時間が割けるようになればいい。
そんなことで、今は十分だと思う。
脆さとの戦いはこの先もずっと続くんだけど、その都度乗り越えるしかないじゃん。
ってなわけで、ブログに話をまとめられる(まとまっているようには見えないかもしれないけど)ようになったら、復調の兆しかなと、勝手に思ってるんだな。
脆くできてる自分を乗り越えて、またはじめればいいかなぁ。
- 【万年筆とインク】プラチナ プレピー × ストーリア ファイア はじめました
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2016.07.15 Friday最近は、すっかり顔料インクの虜のぷぅコッコです。
そんなぷぅコッコさん、顔料インクと古典インクの話を書いているよ( ´ ▽ ` )ノ
是非是非読んでみてね!
顔料インクと古典インク1
さてさて、
顔料インクと古典インクの話5 それでも顔料インクを使いたいなら
でも書きましたけれど、プラチナさんは自社顔料インクの使用に関して、幾つかのペンを推奨してくれています。
その中で一番リーズナブルといえば!
プレピー
PPQ-200プラチナ 万年筆 PPQ-200 Preppy プレピー 細字(0.3)
価格:138円(税込、送料別)
ってなわけで、プレピーと手持ちのセーラー・ストーリアのファイア(赤)を合わせてみることにしました。
あっ、ちなみに、同じ顔料インクですけど、プラチナさんのものではないので、プレピーがもし固まっちゃったとしてもプラチナさんは保証してくれません。
(まっ、そこは固めちゃったら、また一つのネタになるということで。。。)
プレピーにコンバーターをつけて使用していますが、金のコンバーターがかなりアクセントになってくれています。
また、顔料インクはマッドなので、その色味もマッチしてて、とてもキュートな仕上がり。
大満足です。
プレピーに対してコンバーターのがお高いので、コンバーター一本でプレピー何本買えるのよ?
ってな感じですけど、これはプレピーの方が超良心的な価格に抑えられているのが原因です。
広く万年筆を普及させたいというプラチナさんの願いが込められた値段だということだそうです!
なるほどねー。
国産品で書き味バッチリなのに超低価格!かつ、コンバーターも使えて、顔料インクでもオッケーとなれば使わない手はないですよねぇ〜。
そんなわけで、しばらくプレピーでも顔料インクを試してみたいと思いまーす。