なんかうっかり申し込んじゃったら、深く考えさせられるセミナーだった、ぷぅコッコです。
CILフォーラム ”Inclusive Leadership: Key For Future Japan”
というやつに参加してきました。
APU 立命館アジア太平洋大学が20周年を記念して、フォーラムをするってのの1回目だそうです。
あまり何もわからず、東大の入学式で祝辞を読まれて話題になった上野先生の話を生で聴けるということにワクワクしながら申し込んでしまった。
なので、内容に期待してたということもなく参加しちゃったもので、入り口で登録する際に、名刺を求められてタジタジしたりして。
(奇跡的に持ってたので、お渡しできました。)
あー、社会人としてというか、名刺を出さなきゃならんようなセミナーであったか。。。と、ちょっとドキマギしたりして。
部屋は予想していたよりも小さくて、その中に満員の人となりました。
ダイバーシティーやらインクルーシブ リーダーシップやらということが叫ばれるわけなのですが、いろんなことにラベリングしてきたのは「人間たちそのもの」で、うまくいかないいろんなことは、「人間たち」が勝手に常識としてコレクションしてきたものよね。
なんてことを思う。
ダイバーシティーみたいなことを体現できるAPUという大学の取り組みの話から、会スタートしたのでした。
でも実のところ、それもわたしはふんわりとしかわからなくて、ボケーっとしてました。
そうこうしているうちに、上野先生の話がはじまりました。
上野先生は今回
基調講演 「超高齢社会日本の課題:官民協私の連携へ向けて」
という講演をしてくださったわけですが、上野先生はそもそも、介護という社会通念を通した超高齢化社会の課題を研究されてる先生だったのですね。
恥ずかしいながらなんの先生なのかもわかってなかったので、まさか超高齢化社会から介護保険を取り巻く社会の話になっていくとは。。。びっくりしてしまいました。
介護というと、今、リアルタイムで父の介護に向き合わなくてはいけなくなりまして、去年はそれらを軌道に乗せるため、大変だったなー。
ってなこともあって、現場側として知ってることがいろいろあるわけです。
上野先生の話の中で、「介護保険は団塊世代が作った最大の功績」という話がありましたが、いやーね、これ、利用してみると、本当そうよね、と思うわけ。
社会学を学んでいるわけではないけれど、自分が社会と関わってる歴史を見るだけで、日本という国の老人というのは恵まれてるのよね、ということを感じるわけです。
介護保険で言えば、官民が連携して、地域で包括的になんて言葉で、なんとでもなんだけど、そんな言葉を使わなくても、その制度に乗っかれるような者に父がなって、実際に利用してみると、やっぱりよくできてる。
ケアマネさんがついて、月に一度、家族と話をする。
リハビリやデイの人たちは迎えに来て、連れて帰ってきてくれる。
持ち前の人間力もあるかもしれないけれど、最初は嫌がっていた父ですら、その取り組みに乗り、デイやリハビリで人と繋がり、それなりに楽しく過ごす方法が見つかる。
すごいことなのだ。
これだけ手厚くプロに見てもらえる。
やっぱりすごいことだ。
わたしは子供を保育園に預けて仕事をしてきたわけだけれど、ケアマネさんのような人がいるわけではなく、保育園選びやすべての便利な情報は自分でとりにいかなくてはならなかった。
当たり前?
そう当たり前。
でもさ、子供を産んだお母さんたちにもしもケアマネさんみたいな人が国の取り組みとしてついてくれて、月に一度でも話を聞いてくれたとしたら、何か困ったことがあったらいつでも相談できる人がいたら、と思えてならない。
その意味でも、介護保険は優れていると思う。
まぁ、そんな介護保険の話から、死ぬことの在り方の話が展開される。
みんな最後は死ぬのだということを考えた時、自分の親が自分とは別のところで元気に生を全うする。
そういう仕組みに社会がなっていければ、一人で死ぬ(当たり前だけど)、それも望んだように一人で死ねる社会となってきたというか、そういう意識改革が進んだ介護保険20年だったという話に引き込まれ、深く納得してしまった。
最後は自分の家で死にたい高齢者が施設に入って、最後は病院で死ぬのが当たり前のように思うけど、それは本人の望みではなくて、本当は家族に迷惑をかけまい、地域に迷惑をかけまいとすることの現れで。。。
家族の都合
なのだ。
でも、「高齢者がその家族と一緒にいる」というのを「望んでいるか」というと、実はそうではなくて、一人で気ままに生きていた時のままを持続できる仕組み(食事が届いて、見届けてくれて、必要な介護が受けられる)というのがあれば自分の家で、家族を気にすることなく最後を迎えられるということなんだろう。。。
なんてことを思う。
まぁ、人間は勝手なもので、元気な時のままの家に戻りたいということなんだけど、元気な時のままの家というは、「自分も元気そのもの」という前提だったりする。
そりゃそーだ、介護が必要なほど身体が効かなくなるなんて、なってみなけりゃわからない。
なってみなけりゃわからないが緩やかに楽しくできるためには、なった人をたくさん見てきた人たちがプロとして介入し、それぞれの人に合わせた「自分の死に方」の在り方を体現する以外にはないのかなと思ったりする。
そこに家族という素人は要らないのかもしれない。
それでも家族には、また別の役割がまだある。
その人となりを知り、愛情を持って接するという気持ちの部分だ。
いずれにしたって、介護でヘキヘキとしてしまった家族では愛情もへったくれもないもので、疲れきらないためにも、社会で、地域で人を「看取る」という取り組みが必要だし、そういうことに向かってやってきたんだなぁ、としみじみ思ってしまった。
こういうことを考えるきっかけとなるセミナー。。。
たまには頭をフル回転させるためにセミナーに参加してみるってことは尊いことだと思ったりした。
皆さんも是非機会があれば聴いてみてくださいませ。